読書日記:ヴィーナスシティ

ヴィーナスシティというSFを読んだ。
舞台は高度に情報化が進んだ日本。
そして、その情報化が生んだネット上の仮想現実世界”ヴィーナス・シティ”この世界の中では誰もが現実とは異なる思いのままの姿を得られる…。ジェンダーさえも。
主人公は森口咲子(サキ)。いつものように仮想世界へのダイブを楽しんでいたサキはなじみの店で、ある女性を助けたことから思わぬ犯罪へと巻き込まれていく・・・。

と、ま、あらすじはこんなもんでしょうか。
感想は読み始めは楽しく。ま、ありがちだけど、それは10年前のものということで、そのころの小説としては適切な内容だったんだろうと。今のネットインフラの整いようとかみてると、仮想現実がどったらっていうのは、それほどインパクトのある世界設定ではないからなぁ。基本オプションの一つってところか。

しかし、だ、非常に終わりかたに不満がある。そこまでもりあげといて、そんな終わりかよと。まぁ、これも10年前の小説だから仕方ないのかとは思うけど、最後はやっぱり嫌いだなー。こう肩透かしをくらったような感じだ。お前はRPGのラスボスかとつっこみたくなってしまった。いや、むしろゲーム側が真似たんだろけどさ。
でもありがちだよなー。

追記 2008/12/04 ネタバレ注意?
何故自分がこのような展開が気に食わないか、自分なりに考えてみた。
この小説の最後に出てくるのは、その小説の設定世界における絶対者的な存在だ。そしてその絶対者というのはその世界設定を壊しかねない矛盾を孕んでいる。
ちょうど、我々の世界における神の存在のように。(ここでの神は一神教の神を指す。世界を創造したとかあれね。ちなみに自分の宗教的バックグラウンドは仏教と神道です。)
作者は少なくとも小説を書く上で、緻密な世界設定を行うはずである。簡単に言うと登場人物は何はできて何はできないか、という。
登場人物はその設定にそむくような行動は取れないし、だからこそ、その登場人物の中に様々な感情が生まれ、迷い、葛藤、ジレンマを通し彼らは行動を選択し成長するものはし、生きるものは行き、死ぬものは死ぬ。そしてその世界設定が自分の理解の範疇であれば、何故、登場人物ががその行動をとったか、何故悩んだり、自分は様々な感情を抱いたか理解することができ、ときにそれに共感したり、それに反感を覚えたりできる。そういうのが自分にとっては非常に楽しい。

しかし、だ。
その小説である種の絶対者がいきなり登場するとする。この存在は世界設定に左右されない。そのような制約を与えられない。そして彼らは登場人物に助言を与えたり、敵対したりする。あるいは味方だったり敵だったりした奴が実はそういう奴でした、というオチがあったりする。

そうすると、だ。
世界崩壊ですよ。せっかく作者が緻密に積み上げてきた、登場人物の行動のロジックが一気に崩れてしまう。オマエソコデデテクルンヤッタラモットハヤクデテキテチャッチャトハナシツケロヤ!
という気分になる。はぁ?絶対者なりに理由がある?そんなん知らんはぼけぇ。ほんなくだらん世界設定度外視した理由を後付でするなと。私は言いたいわけです。もうねこいつが最後に出てきたときは最悪ですね。最後の最後で小説が崩壊を起こす。そしてそれがなんとも後味が悪い。
そんな感覚を上の小説を読んで味わったのでした。
ああ、"数学的にありえない"を読んだときに味わった気分もこんな感じだったな。今、それが分かった。
これでスッキリした。

さらに追記 2008/12/04
これってギリシア演劇でデウス・エクス・マキナが批判された理由そのまんまやないかーい。久しぶりに世界史の知識が蘇ったので、一人つっこみをいれておく。